契約社会と論語

年末から年始にかけて松下幸之助翁の書籍数冊と渋沢栄一翁の「論語と算盤」を読んでいました。そこで感じたことは・・・・・

国はいま日本の雇用市場に契約という概念を導入することで労働紛争を防ごうとしていますが、これが果たして正しいことなのかという疑問が生じました。

日本人である松下幸之助翁や渋沢栄一翁は言うに及ばず、外国人のPFドラッカー先生でさえも「会社はコミュニティ(仲間社会)である」と捉えています。本来、コミュニティ(仲間社会)である会社の中に、無理に契約の概念を持ち込むと、歪な権利と義務が発生してしまうのではないでしょうか? コミュニティ(仲間社会)である会社が円滑に機能するために必要なのは契約や法律ではなく、「人としての道」ではないかと思います。紛争が発生して止む無く法律で解決する場合は兎も角として、出来得れば、人としての道(道徳)で解決できるに越したことは無いと考えます。

最近の学卒者は「ゆとり教育」を受け、また道徳教育も昭和30年代で廃止されていますからその親でさえも知らない場合が多い(親が子に教えていない)のです。従って、会社に入社させてから道徳教育を施さなければならない時代となっています。

大昔の中国のある皇帝が、二人の赤ん坊を人間や世間から隔離して育てたそうです。その結果、この二人は大人になっても言葉は話せず意味不明の奇声を動物のようにあげるだけの人間(?)となったそうです。人間の人間たる所以は生まれながらに備わっているものではなく、社会や親が教えることで身についていくものだということがこのことから分かったそうです。

新卒者に限らず中途採用の中年の人でも道徳教育を学校でも親からも受けていない人が沢山いる時代です。従って、自分の会社を健全な会社にしようと考えるのであれば、論語でも儒教でも良いから昔しの教えを元に自らが振り返り、同僚や後輩に諭し、人間としての道を社内に広めていくことが大切だと思います。

このことは明治の偉人:渋沢栄一翁の「論語と算盤」にも指摘されています。翁いわく「社会問題とか労働問題等の如きは、単に法律の力ばかりを以って解決されるものではない。例えば一家族において・・・」。現代と同じように明治時代は大きく文明が変わった時代ですから、その時代の中で渋沢栄一翁は「孝・悌・忠・信・仁義・道徳」の大切さを説き続けながら幾つもの大事業を起していたのです。

松下幸之助翁は「松下電器は、電気製品をつくる前に人をつくる」と言われています。

伸びている会社は人(従業員)を大切にしています。人を大切にするから、人に仕事を通じて人としての道を教え込んでいます。その結果、更に会社は伸びることが出来るようになります。

ただし、中には「人としての道」を理解しようとせずに権利ばかりを主張する輩もいますから、最悪の事態に備えて必要最低限のことは契約書で明確にしておくことは必要なことだと思います。

労働諸法で契約書や協定書を交わすように義務付けていますが、これだけでは片手落ちであり、会社というコミュニティ(仲間社会)の中での「人としての道」も社内で説き続けることが必要ではないでしょうか?